憎んでいた人が死んだらどう思うのか

「憎んでいた人が死んだらどう思うのか」検索してみた。

大概の人は、家族でも友人でも生きている内は憎い嫌いな人の事を悪く言うが、死ぬと良い想い出の方か優位になり、何故かその人の良い所や楽しい想い出を語るらしい。

けれどもそうならない人はいる。「死んでスッキリする」ならまだしも「死んだらもう後悔させられない、もっと苦しんで欲しい」とか。

憎しみの度合いなのか、本当に死んだ人が悪いのか、それはわからないが、私はなるほどそういう人もいるのだと納得するしかない。

妹は危篤の時、もう話したくないから会わないし電話もしないと言い、「私がお父さんと喋らなくなった理由は天国で考えてね」と手紙を私に託したが、私は「天国」と言う言葉に引っ掛かってまるで父に死ねって言ってる気がして渡せなかった。少しでも生きていて欲しいと思うならそんな言葉は出ないはず。

父が亡くなって母は「スッキリした」と言った。

私にだけ優しい良い父だったのだろうか?本当にそこまで憎まれるような事をしていたのか?何かのボタンの掛け違いなだけな気もするし、逆に母の方が父に負い目のある秘密があってそれを暴露されないからほっとしているのかも知れないとか、いろいろ無駄な想像をする。

重松清の「流星ワゴン」の中で「嫌ってもいいし、憎んだってかまわない。親の世界から出ていかないと、子どもはどこにも行けなくなっちゃうんだから」そして「親だって同じなんだ。もっと楽になりたいし、自由になりたいんだ。子どもにすがって欲しくないときだってあるんだよ、親には」とある。

すごく納得した。

憎んでも嫌っても、逆に憎まれても嫌われても、父も、母も、妹も、自分なりに必死で生きてがんばって生きて、だからそれでいいと思った。

私だけが成長出来なくて子どものまま、暖かく幸せな家族の幻想を抱いてたのかも知れない。

人はそれぞれ自分にしかわからない気持ちがある。自分にもわからない気持ちもある。他人がそれをわかるわけがない。上手くコミュニケーション出来なくて伝えられなくて、黙り込んで、不満を溜めて、悲しみ憎み辛くなったんだね。自分で解決出来なくてどうしようもなくて相手を憎んで嫌って楽になろうとしたのかな。認めて欲しかったのに、認めて貰えなくて、嫌う事で伝えようとしたのかな。

嫌われるのは悲しいけど、生きてたら絶対それはある。嫌いたくなくても嫌いなものは嫌いなんだし仕方ない。

嫌いなものから逃げるか、嫌いなものにチャレンジするかのどちらかだ。

憎む事も辛いと思う。他人には理解し難い憎まなくてはいけない理由があるのだろう。私の想像を越える憎しみがあるのだろう。

私はそういう気持ちになった事がないだけ幸せなのかも知れない。