現金生活

2日前いつものコンビニでバーコード決済しようとしたら「このカードは使えません、他のカードをお使い下さい」みたいなメッセージが出た。カード会社に連絡したら夜中にネットで1円の利用があり不正利用の可能性があり不審なので止めたらしい。現カードは既に誰かに使われる可能性があるので新しいカードを再発行すると言う事らしい。多分ランダムに数字を打ち込んでいって当たったやつを使う手口らしいので防ぎようもないらしい。私は宝くじも懸賞も絶対と言っていいほど当たらないのに、こういう貧乏くじには当たるのだ。幸いカード会社が止めてくれたのでお金を盗まれる事はなかったのでホッとした。

新しいカードが来るまで1週間はかかるらしく、次の日からは現金生活が始まる。最近はすべての買い物をカードやバーコード決済で済ませていたからなんだかすごーく不便な気がするし、カード決済でポイントを貯められるお得感もない。週末に買い物に出掛けようと思っていたが、気分を削がれてしまった。

何となく癪に障るのでちょっとセコいが貧乏人なりの無駄な抵抗をしてみる事にした。

出来るだけ現金扱いしかしていない店を利用する。どっちみちポイントがつかない200円以下の物を買う。チャージしているカフェのカードでランチする。みたいな、あんまり意味ないかも知れないけどそうでもしないと何か悔しいんです。

390円のカレー屋さんでお釣りを10円もらう。(この10円邪魔だな)いつもモバイルオーダーで席に運んでもらうのに並んでコーヒーを買う(いつもより時間かかる)

現金扱いだけなので超安いと言うスーパーへ行った。卵が2パック330円とか牛乳が190円とか驚きの安さだ。いろいろあんまり安いのでカゴにあれもこれも入れようと思ったが、「待てよ?財布にはあと2000円程しかないんだっけ」となりめっちゃ計算しながらの買い物になる。

支払いは人ではなく現金を入れてセルフで払う機械だ。このスーパーをいつも利用している人は慣れているみたいだったけど、私はこれをあんまり使った事なかったのでちょっともたついて他の人より時間掛かっているみたいで恥ずかしかった。私は財布からお金を取り出すだけで、どれだっけ〜?と遅いのだ。お釣り8円。久し振りに5円玉と1円玉を触った。

新カードが来るまで頑張れるのかなあ? 

何年か前までは当たり前にしていた事も忘れかけている。そして1%にも満たないポイントが貰えるだけで得をした気分でカードを使う情けない私に気が付くのでした。

線路沿いの桜が見たい

桜が満開だ。

3年前の週末、父のマンションの最寄り駅の線路沿いの桜も満開だった。父はその桜は見ただろうか。「駅の桜が綺麗らしいな」と言っていた記憶がある。その頃は父が死ぬとは思ってはいなかった。本人は「もうすぐ死ぬ」と頻繁に言っていたが、狼が来たというイソップ物語を聞くようにまだまだ先の事と思っていたのだ。

父が死んでからはお墓参りの後にマンション界隈を歩くというパターンになり、最寄り駅からの道をあれから歩いてない。休日、久し振りに歩いてみたいなあと思ったが、日々の雑用が溜まり、自分の体調もイマイチなので諦めた。

あるお坊さんの話。              供養とは共に養うと言う事。亡くなった人ではなく大切な人を亡くして死を悼む人のためのものである。あなたがずっと悲しんで自分の人生を生きられていないと、亡くなった人が悲しむとは思いませんか。亡くなったお父様の事ばかり思って、自分の生きる時間をそれによって無駄にするのですよ。

父を想うのもよいけれど、自分の生きる事が大切なのだと、お墓参りにも絶対行かなければ、と思わなくてもよいのだという気になった。たとえ忘れても私の中には父の血が流れている。

ちゃんと生きよう。悲しみたい時泣いて嬉しい時笑って、やりたい事やる行きたい所へ行くために働いて、自分を生きよう。

駅の桜を見てあの道を歩くのはまた来年でもいいかな。         

父の親父

「北陸へ行こう」敦賀から金沢まで北陸新幹線が開通した。京都から金沢までサンダーバード1本では行けなくなった。新幹線か在来線に乗り換えらしい。

私の父の故郷は金沢の山奥だ。15歳の時養子として京都へ上京した。以来京都で働き、結婚し、子どもを育て、そして別れ、京都で死ぬ。

サンダーバードに乗って故郷へ帰り、結婚すれば妻や子どもを連れて帰り、親や兄弟の幸、不幸、揉め事等、何かあるごとに金沢と京都を往復した。私もサンダーバードに乗って、親に連れられ、又は1人で祖先のお墓参り、そして従姉妹と会いに行った思い出がある。

北陸新幹線は東京方面の人には嬉しいかも知れないが、京都から金沢へは不便になった。何となく遠くなった気がする。

父の話しを思い出す。

中学を卒業した15歳の春。希望に膨らむ上京だったはず。引き取られたのは理髪店を営む親戚だった。子どもがいないので跡継ぎに欲しいと8人兄弟のうち1番年下の男の子をくれと頼まれたそうだ。はじめのうちは大切にされ、理容学校に通うが、病弱で小学校にあまり通えなかった父は勉強が出来ず理容学校の成績が悪かった。怒った養父母は父の親に、やっぱりこんな子はいらないから帰すと手紙を書いた。お盆になり「お前そろそろ親にも会いたいやろうから1回帰って来い」と旅費をくれた。何も知らない父は喜び勇んで故郷へ帰る。故郷の両親は父に何も言わなかった。母は優しかった。親父だけが手紙の内容を知っていた。1週間が過ぎ帰る時「また来るからな」と手を振って山を降りようとした。両親が手を振っている。そしていつも厳しい、絶対泣いたりしなかった親父の頬に涙がポロポロ流れるのを見る。珍しいこともあるもんだと不思議に思いながら京都へ帰って来た。養父母は驚き「何で帰って来たんや」と。親父は養父母に「この子はお前の家の子になったんや、もううちの子やない」と言ったそうだ。

父の親父。

私は祖父とは子どもの頃に会っただけで話した記憶はないが、厳しいけれど優しい人だったと想像する。あの時代、一度村を出て行った人間が戻って来てもどうしようもないのだ。馬鹿にされるだけだ。

父は親父を恨んだりしなかった。厳しく育てられたが、子どもの頃病気だった父を背中の籠に入れて山道を1時間かけて降り、病院へ連れて行ってくれた記憶は死ぬまで消える事はなかった。

バレエは残酷

バレエは残酷だ。

子どもの頃、綺麗な白鳥の衣装を着て美しく、くるくる回ったり翔んだりするオデット姫に憧れて、一生懸命練習して頑張れば私もバレリーナになれると思っていた。夢は自由だ。パリオペラ座で美しく舞う自分を空想出来た。

初めてバレエのポジションをとるために、足を1番ポジションにしようとしたのだが、硬い私の股関節は1番にならなかった。もちろん5番ポジションも。その時点でバレエに向いてなかったのだ。子どもながらにショックが大きかったのだが、夢見る夢子の私は頑張れば少しずつ出来るようになると信じてしまった。そのポジションをとるのが硬いだけで、他の身体の箇所は柔らかい方だったので諦められなかったのだ。

そしてある時点で先生が力を入れる生徒と入れない生徒がいる事に気付く。お金関係も少しはあったかも知れない。そしてそれより残酷な事。それは足の美しさだった。足の甲が高く、膝の裏が綺麗に伸びてエックス脚、弓なりに伸びた長い脚でタンジュが出来る子はバレリーナになれる才能が備わっているのだ。頑張ってたくさん回れても跳べても真面目にサボらずレッスンに通っても関係なかった。私より後からバレエを始めた子が私よりも良い役をもらう。回れないくせに、バレエのパもあまり知らないくせに、悲しかった。憎かった。私はその子にイジワルしだす。無視して、あからさまに嫌味な事を言ったりした。嫉妬している事はわかっていても自分を止められなかった。その子はそのうち辞めて行った。

だけど私の脚は生まれつきO脚で甲はなくいつまで経っても内向きのままだった。すごい努力したよ。家でも時間があればストレッチして冷蔵庫の隙間に足を入れて甲を伸ばした。バレエのレッスンは大好きだった。身体を動かすことが楽しくて、少しずつ上達していく自分が嬉しかった。ずっと一日中でもレッスンしていたいくらいだった。

大人になっても馬鹿な私は夢を見ていた。バレエの先生も日本では生徒は月謝を払ってくれるお客さんなので、外国のバレエ学校のように「あなたはバレエに向かないから進級できません」とかは言わずひたすら前向きに励ましてくる。それはそれで残酷だけど、その子か向いてないバレエに無駄な努力をしないで、もっと違う可能性を見出すのを早めに助けてくれるからそれは正解なのだ。私は騙され続け、夢を見続けた大馬鹿者だ。

結局バレエの先生と呼ばれる人に認めて貰った事は一度もない気がする。頑張ってるね、とか偉いねとか、発表会では良かったよとか言われても、全ては月謝の為の社交辞令なのだと思える。

私は自分でバレエの大人の生徒を集めて、自分の教室のバレエの発表会をした。そして初めて自分が主役で踊った。ずるいかも知れない。主役を踊れる才能なんてないのに自分が主催で、自分よりずっと経験の浅いまだ踊れない大人を集めて踊る。賢い人の集まる進学校は付いて行けないから、レベルの低い学校でトップを取って喜んでいるのと同じようなものだ。だけどそれがすごく楽しいし、幸せだ。井の中の蛙って言うやつ。

もう諦めたよ。これ以上は登れない。

生まれ変わったら今度は綺麗な脚になれるかな、またバレエが踊れるかな。

今でも美しい脚を持つ若い子を見るとどうしようもなく羨ましい。その身体を持って生まれて来ただけでスタートラインが全く違う。バレエは芸術だから舞台に立つダンサーは美しくて当たり前。

私がバレエじゃなくて違うダンスをやっていたらまた変わっていたのかも知れないが、私はクラシックバレエの音楽が1番好きで、すべての踊りの基礎になるかのように基本の忠実さを求める古典バレエが好きなのだ。

向いてると好きは違う。

向いているものを選んだ方が楽にもっと上に上がれたのだろうか。

好きな物に執着した人生の最後は悲惨なのだろうか。

金の財布

私達姉妹は生まれてから大人になるまで、決してお金持ちではなく、けれども貧乏も感じなく普通に不自由なく育ててもらいました。けれども子どもなりに何となくうちにはそんなにお金はないのだと感じていたのだと思う。出掛けて父が「おもちゃ買うたろ」って言っても「いらん」とか言ってた記憶、自分から欲しい物を言う子どもではなかった。実際、店をやっていたが、借金もあってグルグルお金が回っている中で暮らし食べていたのだと中学生くらいではわかっていた。

なのに家族でよく外食した。父は黒い長財布を母に渡して「これで払って来て」と言った。私達が20歳を過ぎても妹と2人で出掛けると言うと「お前ら仲いいから出したるわ」と黒の長財布を渡してくれた。お墓参りにいとこと一緒に行く時も、一緒に家族で旅行に行く時も黒い長財布があった。私達姉妹はその財布を「金の財布」と呼ぶ。その財布からお金を出しても出してもまたいつの間にかお金が入っていて永遠になくなる事はないみたいだったから。

父と過ごした最後の3年の間もその金の財布は活躍した。私が行くと金の財布を渡されて会計させられた。それは父の威厳の象徴。譲れないものだと私は知っていた。

その財布は空っぽになって静かに私の部屋の引き出しの奥にある。

いつか妹が父と和解して、父のお墓参りに一緒に行こうと言ってくれたら、この金の財布にお金をいっぱい入れて「お父さんの金の財布やから大丈夫やで」って言ってお腹いっぱいご飯を食べよう。

おじいちゃんと孫の関係

両親が離婚して父がひとり暮らしになって、私は週末によく父のマンションに泊まりに行った。父は近所を散歩してはあそこにケーキ屋さんがあったとか、ちょっと美味しそうな割烹があったとか言って、一緒行こうと誘ってくれた。私が来るのを待ち遠しく思いながら私が喜びそうな店をチェックしていたのだろうなと思う。

私の妹と父の仲がまだ悪くなかった頃、甥っ子、父の孫が小学生くらいまでの間はよく東京から京都へ遊びに来ていた。その頃父は頻繁に散歩に出掛けていたのはきっとその子が喜びそうな場所を探していたのだとはその時は気付かなかった。そういえば甥っ子を連れて河原町のボーリング場へ行って、回転寿司を食べて帰って来たりしていたな。

父の死後、私が父に教えて貰ったケーキ屋さんでケーキを買ったりお店に行ったりするように、その子もいつか大人になって京都の河原町をひとりでおじいちゃんを思いながら歩いてくれたりするような気がする。

私が小学生の時に田舎のおばあちゃんに山を歩いて畑の茄子や胡瓜を取りに行った場所へ大人になってから訪れたように、子どもの胸の中には優しいおじいちゃんはずっといて大人になってもその優しい眼差しは忘れない、大切にされた記憶はずっと残るから、いつか少しでもいいから思い出して欲しい。そして年月が経って景色の違う河原町を歩きながら何十年か前の河原町を想像しながら歩いて見てくれたら嬉しいな。

少しずつ変わっていくね

お彼岸には少しだけ早いけれど、良いお天気だったので、お墓参りに行きました。花を買ってお供え物はいつもコンビニで買って一緒に飲んでいた安い赤ワインと、父が買い溜めしていたやっぱりコンビニの小さい羊羹。ロウソクに火を灯してお線香をあげる。

「来たよ。あっちでも元気にしてる?みんなと仲良くしてる?私はまだまだ生きるけど、もう少し頑張るけど、待っててね。いつか会う日まで。」父の事だからきっと周りの人に誰彼構わず大きな声で話しかけてワイワイやってるんだろうと思う。

今日は私以外にお墓参りに来ている人はいなかったのでゆっくりできた。

いつものように15分くらい歩いて父とよく行った焼き肉屋さんに行く。父とは日の暮れかけた道をゆっくり歩いて、または車椅子を押して、そして最後の方はタクシーで行っていたので店内の窓からは夜の景色が見えていたのだが、今日は明るいすごく明るい。

前に一度父と座った窓際の横並びの席。注文がタッチパネルに変わっていた。メニューも少し変わって値段も上がっている。父との時はお肉とチシャ菜とワインを食べたいだけ飲みたいだけ気が済むまで注文したが、ひとりなのでワインはパス、そこそこお肉とチシャ菜を食べて終了。父から「もっと頼んだら?まだ食えるやろ」「お前はやっぱりケチやな」と言われそうだ。会員カードはスマホのラインアプリになったんだよ。「何やこれわからん」ですよねw。

店を出てしばらく歩くと父が引っ越しして来た時に「お前の好きな〇〇のマークのがあるで」と指で上に高い山を2つ描いたっけ。マクドナルドがある。私とマクドナルドは父の中ではなんかくっついているらしい。よく食べてたしバイトもしてたしね。

道路は変わらずある、車椅子が引っ掛かって危うく渡りきれず誰かに助けて貰った段差も小さい思い出になってそこにある。

父の住んでいたマンションは新しく塗り替えられてオートロックになって自由に入れなくなっていた。自由に上がったり降りたり出来た外側の階段も鍵が掛けられている。すっかり変わったんだよ。

父が毎朝通ったカフェでコーヒーとケーキを食べる。何故って父はいつも私に「ケーキ食べたら?」って勧めてくれたから。2階に漫画が置いてあったのにカーブスに変わっていた。メニューも変わって美味しそうなパンケーキがあったけど、私は前に食べたチーズケーキがいい。大きな推し車を横に置いてそこに座って背中を丸めて新聞を読んでモーニングのコーヒーとパンを食べていた。オマケのクッキーが部屋に溜まっていて私がそれを食べていたんだ。

少しずつ変わっていくちょっとした事が時の流れを感じさせる。まだ2年もう2年。どこにいるの?私をずっと守ってくれた人。老いても、そして死んでからも私を守ろうとしてくれた人。鼻の奥がつんとして眼に溜まっていく涙が、息を苦しくさせると共に私を優しく温かく包んでくれる。