バレエは残酷

バレエは残酷だ。

子どもの頃、綺麗な白鳥の衣装を着て美しく、くるくる回ったり翔んだりするオデット姫に憧れて、一生懸命練習して頑張れば私もバレリーナになれると思っていた。夢は自由だ。パリオペラ座で美しく舞う自分を空想出来た。

初めてバレエのポジションをとるために、足を1番ポジションにしようとしたのだが、硬い私の股関節は1番にならなかった。もちろん5番ポジションも。その時点でバレエに向いてなかったのだ。子どもながらにショックが大きかったのだが、夢見る夢子の私は頑張れば少しずつ出来るようになると信じてしまった。そのポジションをとるのが硬いだけで、他の身体の箇所は柔らかい方だったので諦められなかったのだ。

そしてある時点で先生が力を入れる生徒と入れない生徒がいる事に気付く。お金関係も少しはあったかも知れない。そしてそれより残酷な事。それは足の美しさだった。足の甲が高く、膝の裏が綺麗に伸びてエックス脚、弓なりに伸びた長い脚でタンジュが出来る子はバレリーナになれる才能が備わっているのだ。頑張ってたくさん回れても跳べても真面目にサボらずレッスンに通っても関係なかった。私より後からバレエを始めた子が私よりも良い役をもらう。回れないくせに、バレエのパもあまり知らないくせに、悲しかった。憎かった。私はその子にイジワルしだす。無視して、あからさまに嫌味な事を言ったりした。嫉妬している事はわかっていても自分を止められなかった。その子はそのうち辞めて行った。

だけど私の脚は生まれつきO脚で甲はなくいつまで経っても内向きのままだった。すごい努力したよ。家でも時間があればストレッチして冷蔵庫の隙間に足を入れて甲を伸ばした。バレエのレッスンは大好きだった。身体を動かすことが楽しくて、少しずつ上達していく自分が嬉しかった。ずっと一日中でもレッスンしていたいくらいだった。

大人になっても馬鹿な私は夢を見ていた。バレエの先生も日本では生徒は月謝を払ってくれるお客さんなので、外国のバレエ学校のように「あなたはバレエに向かないから進級できません」とかは言わずひたすら前向きに励ましてくる。それはそれで残酷だけど、その子か向いてないバレエに無駄な努力をしないで、もっと違う可能性を見出すのを早めに助けてくれるからそれは正解なのだ。私は騙され続け、夢を見続けた大馬鹿者だ。

結局バレエの先生と呼ばれる人に認めて貰った事は一度もない気がする。頑張ってるね、とか偉いねとか、発表会では良かったよとか言われても、全ては月謝の為の社交辞令なのだと思える。

私は自分でバレエの大人の生徒を集めて、自分の教室のバレエの発表会をした。そして初めて自分が主役で踊った。ずるいかも知れない。主役を踊れる才能なんてないのに自分が主催で、自分よりずっと経験の浅いまだ踊れない大人を集めて踊る。賢い人の集まる進学校は付いて行けないから、レベルの低い学校でトップを取って喜んでいるのと同じようなものだ。だけどそれがすごく楽しいし、幸せだ。井の中の蛙って言うやつ。

もう諦めたよ。これ以上は登れない。

生まれ変わったら今度は綺麗な脚になれるかな、またバレエが踊れるかな。

今でも美しい脚を持つ若い子を見るとどうしようもなく羨ましい。その身体を持って生まれて来ただけでスタートラインが全く違う。バレエは芸術だから舞台に立つダンサーは美しくて当たり前。

私がバレエじゃなくて違うダンスをやっていたらまた変わっていたのかも知れないが、私はクラシックバレエの音楽が1番好きで、すべての踊りの基礎になるかのように基本の忠実さを求める古典バレエが好きなのだ。

向いてると好きは違う。

向いているものを選んだ方が楽にもっと上に上がれたのだろうか。

好きな物に執着した人生の最後は悲惨なのだろうか。