「過去も未来もない、今ここに生きる」
アドラーの言葉を父は私によく話した。
過去を後悔しても仕方がない、未来に起こるかも知れない不安も捨てて、ただ今を生きるんだと言っていた。
「夜と霧」で過酷な収容所での生活を強いられたフランクルは「全てを没収されても過去は誰にも取られない」と言い、愛する妻との過去の思い出に心を馳せ、未来での愛する家族との再会、自分の使命である仕事の達成を待ち望み、悲惨で明日の生死もこれがいつまで続くのかもわからない今を生き抜いた。
今が過酷の極みの場合、美しい過去と希望の未来がなければ生きていけない。それとも過酷過ぎる故に過去も未来も素晴らしく見えるのか。
私の父も母も過去を語る時、苦労話不満話を何度も繰り返し、未来に高齢になって健康でなくなったらもう生きて居たくない、長生きしても子どもに迷惑かけるだけだからと嘆いていた。
私は過去というより思い出として、楽しかった家族旅行や食事会、頑張ったバレエの舞台の数々がキラキラと輝く。未来は不安もかなりあるけど、それでも次の舞台へ向けて自分を鼓舞する事が出来る。それはもう少し歳を取れば父母のように難しい事になるのだろうか?私は楽観的脳なのだろうか?
フランクルの過去がもっと悲惨で思い出すのも辛かったとしたら、どうなっていただろう。今が過酷でも過去と未来を素晴らしく脳内で想像出来る人と、そうでない人とでは生き残る確率は違ったのだろう。
フランクルのような精神には誰でもなれるとは思えない。
ちょっと考え方を変えてみる。
父は苦労話を何度も私に聞かせたが、それは私にとって嫌なものではなかった。何度でも楽しく聞けた。父は苦労を楽しんでいたのではないだろうか。人生を障害物競争のように、ゲームのように苦労を楽しんだからこそ、その苦労話を生き生きと話していたのではないだろうか。
だとしたら過去は良い事も悪い事もひっくるめて素晴らしい。
未来も希望と不安があるからこそドキドキして人生のゲームを楽しめるのかも知れない。